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Yasukuni Shrine – 2 September 20, 2008

Posted by TAMAGAWABOAT in Blogroll, WW2, Yasukuni.
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http://youtube.com/watch?v=Hx1Qnh-wNq0

The first time that I visited Yasukuni Srine was 2004 4 years ago. My friend invited me to go to Yasukuni Shrine for Hatsumode (new year’s visit to a shrine) on 2004 New Year’s Eve. Before visiting Yasukuni Shrine, I had a skewed image of Yasukuni Shrine. For example, I had an image of Yasukuni Shrine as militarism or Uyoku (right wing).

However, while seeing a lot of portraits of the people who fought very hard to protect their loved one and died in the war, and while reading a lot of farewell notes addressed to their mothers or their wives or their children. I understood so well that many people sacrificed their lives for their loved one. I understood so well that many people died for future Japan, 63 years ago. In every farewell note, everybody said the same thing, “I’ll meet you at Yasukuni Shrine even if I depart from this life. Come and see me.” I thought it was a matter of common sense for the Japanese people to visit Yasukuni Shrine and to thank ‘the spirits of the war dead’ for their fighting. Because many people became to the cornerstone for present-day Japan’s peace and prosperity.

In present-day Japan, however, there are many Japanese people who have the same skewed image of Yasukuni Shrine as I had before visiting there. There are many Japanese Diet lawmakers who decline to visit Yasukuni Shrine. And more, there are some Japanese Diet lawmakers who attempt to blaspheme against ‘the spirits of the war dead’. They are thankless fellows. They are traitors. Many people who fought and died for the defense of our Japan said that they would wait for us at Yasukuni Shrine. We Japanese must hold our promise with the people who gave their lives for our Japan.

僕は4年前に友達から初詣に誘われて初めて靖国神社に行きました。2004年大晦日の夜のことでした。それまで靖国神社は軍国主義の神社で、灰色の右翼の街宣車に乗った黒いサングラスをかけた怖そうなお兄さんたちが行くような場所だと思っていました。

しかしながら、靖国神社の遊就館で戦争で亡くなられた方たちの手紙や遺品、お一人お一 人のお写真を拝見しているうちに、アメリカに追い詰められ、存亡の危機にあった日本を守るため、愛する家族や妻や恋人を守るために、必死に戦って亡くなっていかれた幾多の人々の思いに接しました。「お母さん、自分はたとえ死んでも、靖国に私の魂はあります。靖国でお会いできますよね」と言って戦地に赴いた多くの日本人たち・・・。僕は、日本人であれば靖国神社に参って亡くなった人たちに感謝することは、きわめて 自然なことだと思うようになりました。なぜなら、いまの平和な日本があるのは、必死に戦って死んでいった幾多の人たちのお陰だからです。

靖国神社を非難する人の多くが「靖国神社にはA級戦犯が祀られているから・・・」という理由を挙げます。しかしながら、その理由以前に、日本という国に命を捧げた250万 あまりの日本の兵隊さんに、なぜ素直に感謝や慰霊の言葉を捧げることができないのでしょうか?A級戦犯が合祀されていることを盾に靖国神社そのものを否定しようとする人々は、論理的な思考の欠如以前に、「人」としての「情」というものが欠落していると思います。僕も靖国神社へ初詣に行くまでは靖国神社を歪んだ眼で見ていました。実は、僕自身さえも反日の日本人だったのです。

「靖国神社にはA級戦犯が祀られているから・・・靖国参拝はすべきではない」というステレオタイプ。実はこれこそが、日本のマスメディアが作り上げ広く日本人たちの認識の中に刷り込んでいった一種の洗脳であることに、賢明な日本人は早く気付くべきであると思います。日本のマスメディアは「靖国神社」というイメージを、僕が靖国神社の遊就館を訪ねる以前に抱いていた「軍国主義」とか「A級戦犯」とか「右翼」といった言葉とイメージで歪めてきました。日本人ひとりひとりが靖国神社を自分の足でゆっくりと散策し、そして遊就館に掲げてある無数の遺影を眺め遺書をひとつひとつ丁寧に読み込むことをお薦めします。「なぜ、彼らは逝ったのか!?」をご自分なりに考えながら・・・。 彼らの遺書ひとつひとつが彼らの愛する者たちだけに向けられた言葉ではなく、現代に生きる日本人たち、すなわち自分に向けられたメッセージでもあるのだ・・・と僕は受け取りました。彼らは口々に「いまの日本をよろしく頼むぞ!」と言っているように思いました。

多くの日本人が「靖国神社で会おう」と言って戦場で散っていきました。63年前に日本のために戦った多くの日本人たちとの約束も果たせない現代の日本人たち。はっきり言って、こいつらは恩知らずです。裏切り者です。死んだ人たちとの約束も果たせない国会議員たちが、はたして国民との約束を果たすことができるでしょうか?彼らは、そもそもが裏切り者であり、彼らを信頼することは危険なのです。

靖国神社にいわゆるA級戦犯が祀られていることを理由に、靖国参拝を拒否する恩知らず・裏切り者の面々。マスメディアが作りあげたステレオタイプに染まってしまって、それに一遍の疑問も抱くことのない単純な脳細胞しか持たない愚か者。彼らはその洗脳から抜け出せなくて、未だに「いわゆるA級戦犯たちが63年前の惨禍を日本にもたらした責任がある」と非難しています。彼らはよほど自分の頭で物事を考えるという訓練がなされていません。果たして、この卑怯で恩知らずで裏切り者である彼らたちに、いわゆるA級戦犯となった政治家・軍人たちほどの技量や資質、道徳が備わっているというのでしょうか。

いい歳しながら、マンガ読んだり、プラモデル作っているような脳細胞の未発達な連中に、いわゆるA級戦犯になった人々を非難する資格すら、そもそも無いのです。東條英機をはじめA級戦犯となり亡くなった人々は、彼らより、遥かに立派な教養と人間性を備えていたのです。石破茂や石原伸晃のようなヌケ作・田吾作の面々は、A級戦犯になられた人々の足元にも及びません。彼らはA級戦犯になられた人たちの足の爪の垢でも有り難くいただいて、煎じて飲むとよいのです。

僕は今年の7月に西村幸祐さん編集の「8・15と靖国の真実」と題するムック本に「Kと伏竜」というタイトルで文を寄せさせていただきました。Kは僕の親しい友人で、彼との付き合いは10数年にもなります。そのKが、2004年の大晦日に僕をはじめて靖国神社へ誘ってくれました。その時、Kは僕に熱心に「伏竜特攻隊」について語ってくれました。Kが亡くなったことを知ったのは、西村さんから原稿を依頼していただいた数日後のことでした。Kの妹さんからの電話でそれを知らされました。妹さんは、Kの携帯電話の着信記録から僕の電話番号を見つけたそうです。その2ヶ月ほど以前に、彼はひとりきりで東京のマンションでふたたび帰らぬ人となっており、音信が途絶えたKを田舎から東京のマンションを訪ねて初めてKが発見されたとのことでした。その後、僕は「Kと伏竜」について約2日間で書き上げ、そしてこの「8・15と靖国の真実」に文を寄せました。06年の夏に、僕が自分のビデオカメラで撮影したYASUKUNIのビデオをYouTubeにアップロードした際に、Kは「千鳥が淵に浮かぶゆらゆらとした灯ろうの列、なんだかいつまでも眺めていたい気分になる」と感想を言っていたことを今でも思い出します。いまの日本の現状・・・果たして、63年前に日本という国を想いながら散って逝った人々は、現代の日本をどう見ているのでしょうか?ひとりの若者が誰からも知られずこの世から姿を消してゆく・・・こんな殺伐とした日本にするために63年前に多くの日本人が命を捧げたのではなかったはずです。

TAMAGAWABOAT oyaji011.gif
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Yasukuni Shrine – 3 what did they die for?
Yasukuni Shrine – 1

Comments»

1. Anonymous - October 18, 2008

War criminals period.

2. Anonymous - February 4, 2009

hi i’m interested in japanese culture! can you please tell me some interesting websites about sex (dog sex, doll sex, rape/torture/strangulation, mother-son/father-daughter, dirty old man-little girl sex, etc. etc.). you japanese are experts right? 😀 show it to me! arigato gosaimasu! ^^

***Japan–Expert rapists of all korean, filipino, chinese, malay, indonesian, burmese, indian, european/dutch girls since 1937. JAPAN is NO. 1! Banzai!!!***

3. ネットウヨ - February 21, 2009

>多くの日本人が「靖国神社で会おう」と言って戦場で散っていきました。

これこそ、根も葉もない官製プロパの受け売り文句。ステレオタイプってやつだなw

4. Shanxi slave - March 14, 2009

Japan should have killed all Chinks.

5. Anonymous - September 2, 2009

麻生さんは靖国に参拝したよ。
むしろ彼は愛国者。
日本のために奔走してくれている人を売国奴に勘違いされるような書き方するのはやめてくれ。

6. 日本国籍華人 - January 1, 2010

相原参院議員 平頂山虐殺事件の生存者に国会議員24人の謝罪状手渡す

日本の相原久美子参院議員は5日朝、88歳の王質梅さんと抱き合いながら涙を流し、申し訳なかったと繰り返していた。一人は加害国の議員、一人は被害国の生存者で、事件は中国東北の石炭の町、撫順市で77年前に起きた。

相原氏は民主党の参院議員で、遼寧省撫順市には初めて来た。ここは70年余り前、日本の占領地で、3000人余りの一般市民が日本軍によって殺害された「平頂山虐殺事件」(1932年)が起きた。王さんは死体の山からはい出した生存者で、当時11歳だった。虐殺で両親と弟を失った。

相原氏は次のように語った。母が生きていれば年齢は王さんぐらいのはずだ。母は中国の済南で5年間暮らし、多くの中国人から助けられた。母はいつも私に戦争は人を変えるもので、最大の罪悪だと言っていた。私たちは歴史を鑑とし、新しい日中友好関係を築かなければならない。

相原氏は東京から来て、わずか30時間余りの滞在だった。目的は書状を手渡すこと。書状は衆院議員10人と参院議員14人が署名した、「平頂山虐殺事件」の生存者に謝罪するものだった。書状には、個人として、日本国民から選ばれた国会議員として、心から謝罪すると書かれていた。

「撫順に来たのも、平頂山事件の現場に触れるのも初めてだ」、相原氏が撫順で最初に見学したのは平頂山虐殺事件跡記念館で、最初に感じたのは「ショック」だったという。

1932年9月16日、中国では家族が団らんして中秋を過ごしていた。日本軍は老人や女性、子供を含む、手に寸鉄を帯びない市民3000人余りを平頂山のふもとに追い詰め、集団大虐殺を行い、証拠を残さないよう死体を焼き、内外を震撼させる「平頂山虐殺事件」を起こした。1970年代に撫順市は虐殺事件跡から遺骨を掘り出し、記念館を建てて安置し、追悼できるようにした。

相原氏は事件の生存者一人ひとりに謝罪状を手渡し、王さんの手を取りながら謝り、苦しかったでしょうと語りかけていた。

現在、「平頂山虐殺事件」の生存者は5人だけで、平均年齢は90歳に近い。

記念館を離れる前、相原氏は日中友好が永遠に続き、平頂山の犠牲者の魂が安らかであるよう願って、中国側の関係者と一緒に二本の松を植えた。 (瀋陽5月5日発新華社)


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