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Sugihara Chiune – A Japanese Holocaust Rescuer August 23, 2008

Posted by TAMAGAWABOAT in Blogroll, History, Japan, SUGIHARA Chiune, WW2.
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http://www.youtube.com/watch?v=h0lizzqOxuI

“Do you remember this?” One day in August 1968, the event happened unexpectedly. A gentleman came over to Sugihara ‘Sempo’ Chiune suddenly. Showing Sugihara one tattered piece of paper, this gentleman asked him, “Do you remember this, Mr. Sugihara?” The piece of paper was the transit visa that Sugihara issued in Kaunas, Lithuania 28 years ago.

28 years ago, in the summer of 1940, Sugihara Chiune was serving as Japanese consul in Lithuania. At that time, many Jewish people fled from Poland where had been occupied by Nazi Germany were crowding into Lithuania. Jewish refugees were trying desperately to get visa at foreign embassies or consulates in Lithuania. However, the Soviet Union, which adopted anti-Semitic policy (anti-Semitic=anti-Jewish) annexed Lithuania as a part of the Soviet Union, requested countries to close foreign embassies or consulates in Lithuania. The last foreign consulate left in Lithuania was the Japanese consulate. So, many Jewish people who sought visa for the purpose of escaping to another country crowded into the Japanese consulate in Kaunas, Lithuania. At first, although Japanese government was repeatedly requested to cooperate in anti-Semitic policy by Nazi Germany, Japanese government took a neutral position in an official manner. However, Japanese Foreign Ministry kept tough visa requirements.

On July 18th in 1940, Sugihara Chiune cabled Japanese Foreign Ministry in Tokyo as to the approval of emergency visa. However, Tokyo replied the next day and told Sugihara to keep visa requirements. Sugihara cabled Tokyo several times. But Tokyo repeated the same response. A week later, on July 25th, Sugihara decided on his own accord and started giving Jewish refugees transit visa for humanitarian reasons. Sugihara Chiune kept writing transit visa in a little more than a month between July 25th and September 5th, though Sugihara received the expulsion order from the Soviet Union epeatedly. The number of transit visa that Sugihara gave Jewish refugees was 2,139. But this number 2,139 is just the number of visa that Sugihara numbered and recorded. Sugihara stopped numbering visa for laborsaving as the Japanese consulate closing day neared. Sugihara kept writing visa in the station until immediately before the train departure. So, the total number of visa that Sugihara gave Jewish refugees in a little more than a month is supposed to have reached more than twice the number 2,139.

On September 5th in 1940, Sugihara Chiune and his family was in the station to board a train for Berlin. Jewish refugees who had known that Sugihara would go on board a train on the day gathered at the station. Sugihara wrote visa on the platform. After he and his family went on board, Jewish refugees hanged on the windows of the train. Sugihara wrote visa from the window of the train. When the train started moving, he couldn’t write visa any more. Everybody was waving their hands. One of them called out, “Thank you, Mr.Sugihara. We will come to see you again.” And he came running after the train.

After that, Sugihara and his family lived several cities (Prague, Kaliningrad and etc.) in Easten Europe and they lived in Bucharest, Romania when World War II ended in 1945. Sugihara and his family were detained by the Soviet military that invaded Bucharest then and they were sent to prison camp (Ghencea, Romania). It was April in 1947 that Sugihara and his family returned to Japan. But Japanese Foreign Ministry didn’t welcome Sugihara and persuaded him into his resignation because of Ministry’s downsizing. Sugihara changed jobs frequently after resigning from Japanese Foreign Ministry.

“Do you remember this?” One day in August 1968, the event happened unexpectedly. A gentleman came over to Sugihara Chiune suddenly. Showing Sugihara one tattered piece of paper, this gentleman asked him, “Do you remember this, Mr. Sugihara?” The piece of paper was the transit visa that Sugihara issued in Kaunas, Lithuania 28 years ago. “At last, I found you, Mr. Sugihara. We still can’t forget you.” This gentleman’s name is B.Gehashra Nishri. B.Gehashra Nishri was the counsellor for Israeli embassy in Japan. B.Gehashra Nishri had been looking for Sugihara Chiune since that station. That station was Kaunas’ station in Lithuania.

In 1985, Sugihara ‘Sempo’ Chiune was given the title of “the Righteous Among the Nations” for his contribution to rescue more than 6,000 Jewish from Holocaust by the government of Israel.

Sugihara Chiune (January 1, 1900 – July 31, 1986)

[Historical Backdrop]

On December 6th, 1939, the Japanese Government decided the outline of actions for the Jewish people and officially announced it.
1) The Japanese government will continue to treat the Jewish living in Japan the same as other foreign residents in Japan and will not deport them from Japan.
2) Regarding Jewish who newly tries to enter Japan, the Japanese government will continue to take an appropriate response under the existing immigration control law.
3) The Japanese government will not positively invite the Jewish. But it is possible that the Japanese government will invite capable Jewish as a special case.

Japan is the world’s first country that advocated the elimination of racism in the international community.  After the First World War, when the League of Nations was established at the Paris Peace Conference in 1919, Japan proposed to include the provision of racial equality to the League of Nations Covenant.  Japan’s proposal was supported by a large majority from participating nations. However, Thomas Woodrow Wilson (the 28th President of the United States) who was presiding at Paris Peace Conference rejected this Japan’s proposal merely because this proposal couldn’t have gotten unanimous agreement.

「これを憶えてますか?」 1968年の夏のある日、その出来事は予期せず起こった。一人の紳士が杉原千畝の家を突然、訪ねた。その紳士は、ボロボロになった一枚の紙を杉原に見せながら訊ねた。「これを憶えてますか?杉原さん」 その紙は、28年前に杉原がリトアニア・カウナスで発給したビザだった。

28年前、1940年の夏、杉原千畝はリトアニアで領事の職にいた。その当時、ナチス・ドイツによって占領されたポーランドから逃れてきたたくさんのユダヤ人がリトアニアに押し寄せていた。ユダヤ難民たちは、リトアニアにある各国の大使館や領事館からビザを貰おうと必死になっていた。しかしながら、反ユダヤ政策を採るソ連がリトアニアをソ連の一部として併合し、ソ連はリトアニア内の各国大使館と領事館の閉鎖を要求した。最後までリトアニアに残されていた領事館は、日本領事館であった。そのため、たくさんの国外へ逃げるためにビザを求めるたくさんのユダヤ人たちが、カウナスの日本領事館へ押し寄せた。当初、日本政府は再三にわたってナチス・ドイツから反ユダヤ政策で協力を求められていたが、日本政府は公式には中立的な立場をとっていた。しかしながら、日本外務省はビザの厳しい発給資格要件はそのままであった。

1940年7月18日、杉原千畝は緊急ビザの承諾について東京の外務省へ打電した。しかしながら、東京は翌日には回答し、現状の発給資格要件を維持せよと伝えてきた。杉原は何度か打電したが、東京は同じ回答を繰り返すばかりであった。それから1週間後の7月25日、杉原は独自に決断を下し、人道的見地からユダヤ難民たちに通過ビザの発給を始めた。7月25日から9月5日の1ヶ月余りの間、杉原千畝はずっとビザを書き続けた。ソ連の再三にわたる領事館の閉鎖勧告を受けながらもである。杉原が発給した通過ビザは2,139枚。しかし、この数は、杉原が番号をふり記録したビザの枚数に過ぎない。領事館閉鎖の日が近づくにつれて、杉原は作業の効率化を考えて、ビザに番号をふるのをやめてしまった。杉原は列車の発車直前まで駅でビザを書き続けた。そのため、杉原が1ヵ月あまりの間にユダヤ難民に発給したビザの総数は、2,139の2倍以上に達すると思われる。

1940年9月5日、杉原千畝と彼の家族はベルリン行きの列車の乗るため駅にいた。その日に杉原が列車に乗ると知っっていたユダヤ難民たちは駅に集まった。杉原は駅のプロットホームでビザを書いた。彼と彼の家族が列車に乗り込むと、ユダヤ難民たちは列車の窓にしがみついた。杉原は窓越しにビザを書いた。列車が動き始めたとき、もはやこれ以上、書くことができなかった。みんなが手を振っていた。その中のひとりが叫んだ。「ありがとう、杉原さん。今度、逢いに行きます!」 彼は列車を追って走ってきた。

その後、杉原と彼の家族は東ヨーロッパのいくつか都市(プラハ、カリーニングラードほか)で暮らした。1945年の終戦時には、ルーマニアのブカレストに住んでいた。杉原と彼の家族は、ブカレストに侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束され、ブカレスト郊外のゲンチャ捕虜収容所へ家族一緒に送られた。杉原と彼の家族が日本へ帰国したのは1947年の4月であった。しかし、日本の外務省は杉原を歓迎せず、省内の人員削減を理由に辞職を迫った。大使館を辞めた後は、杉原は職を転々とした。

「これを憶えてますか?」1968年の夏のある日、その出来事は予期せず起こった。一人の紳士が杉原千畝の家を突然、訪ねた。その紳士は、ボロボロになった一枚の紙を杉原に見せながら訊ねた。「これを憶えてますか?杉原さん」 その紙は、28年前に杉原がリトアニア・カウナスで発給したビザだった。「とうとう、あなたを見つけましたよ、杉原さん。私たちはいまでもあなたを忘れることができません」 この紳士の名前はゲハシュラ・二シュリ。ゲハシュラ・二シュリは駐日イスラエル大使館の補佐官であった。ゲハシュラ・二シュリは、あの駅からずっと杉原千畝を探し続けてきたのだった。あの駅とは、リトアニアのカウナスの駅のことである。

 

[時代背景]

1939年12月6日、日本政府は「ユダヤ人対策要綱」を決定し、それを公式に発表している。
その内容は、
1)日本政府は、現在日本に在住しているユダヤ人を引き続き他国の外国人と同様、公平に扱い、日本からの排斥は行わない。
2)新たに日本に入国しようとするユダヤ人については、現行の入国取締法に基づいて、従来どおり公正に対処する。
3)日本政府からユダヤ人を積極的に招聘することはしないが、有能なユダヤ人については招聘することもありうる。

日本は、「人種差別撤廃」を国際社会において提唱した世界で最初の国家である。第一次世界大戦後、1919年のパリ講和会議において国際連盟設立の際、日本は国際連盟規約に「人種平等の条項」を規約の中に盛り込むよう提案をした。この日本の提案は、当会議の参加国の圧倒的な支持を得たが、当時、この会議の議長役を務めていたアメリカ合衆国大統領、トーマス・ウィルソンによって「全会一致」の合意に到らずという理由で、歴史的賞賛に値する日本の提案は却下された。

 

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なぜ日本人は英語が苦手なのか? August 11, 2008

Posted by TAMAGAWABOAT in Blogroll.
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私がこれから書くことについて、半分の人は納得し、また半分の人は私に対して敵意を抱くだろう。(笑、かなり挑発的な文章なので、ご一読いただく前に予めおことわりしておきます)

言うまでもなく、ほとんどの日本人が中学・高校で6年間、さらに大学に進んだ人は教養課程で2年間、会社の語学研修や駅前留学等で数年間、英語を学んでいる・・・しかしながら、英語が話せない、書けない・・・。英語に対する苦手意識やコンプレックスは膨らむばかり。日本人のほとんどの人がそうだ。「大学の英文科です。英語学科です」という学生のどのくらいの割合の学生が英語を話せたり書けたりするのだろうか。「英語が自由に書けたり、話せたりできたらいいのに」とたくさんの日本人が思いながらも英語が話せない書けない。なぜ、こんな現象が起きているのだろうか・・・その決定的な答えをここで提示する。

よく日本人が「なぜ日本人は英語が苦手なのか」を語る際に、日本の英語の教科書が悪いだの、文法・読解力中心の授業が悪いだの、英語教師が悪いだの・・・自分の英語が苦手な理由を他人のせいにしたり、「日本社会がそもそも英語を必要としない、使用する機会が少ないからだ」と社会のせいにしたり・・・まずはそういう他者に責任を転嫁することをやめるべきだ。そうした理由を挙げる人は、英語を語る以前に「語学とは何か」いや「言葉とは何か」を考えたことの無い人である。教科書が悪けりゃ、書店に行って、気に入った参考書でも買ってくればよい。日本の英語の参考書は、世界のどの英語教科書よりも、英語構文の成り立ちを懇切丁寧に解説してくれている。学校の教師が悪けりゃ、駅前留学でもして「ネイティブ」の教師に教わればよい。ある「ネイティブ」の英会話教師が言っていた。「なぜ日本人は英会話教室にやってきて、自分から積極的に話そうとしないの?これじゃ、時間と金の無駄使いじゃないか。何のために彼らは英会話教室にやってきているのかわからない」・・・実は、その通りである。

私は思う。特に英語は、ヨーロッパ語圏の人たちが英語を習得するのに要する努力、その数倍の努力を日本人はしなければ、ヨーロッパ語圏の人たちと同じようなレベルに達することはできない。「言葉」は毎日のように書いたり話したりしなければ習得は難しい。「語学」と呼ぶ以前に「言葉」というのは、主体性や積極性がないと習得できないものだ。自分の手で書こう、自分の口で話そうとする強固な意思がないと習得は難しい。私は先に述べた「ネイティブ」の英会話教師に次のように言った。「英語以前に、日本語すら正しく話せない書けない者が英語を話すことができるだろうか」と。私は思う。日本の小学校の段階から英語教育を実施するのはやめたほうがよい。さらには中学校の英語教育もやめたほうがよい。英語は高校から自由選択にしたほうがよい。時間と労力の膨大な浪費である。本当に英語を習得したいと思う者だけに英語を教えればよい。真剣にそう思う。

世の中で一流とされる大学の文系学部。東大法科とか慶応経済とか・・・入試の英語の偏差値が70ぐらいあっても、そこの大学をご卒業された人たちのどれくらいが英語を書けて話せるのか?実は、そうした人を見つけるは難しい。いないんだ。おそらく「英語を勉強するために大学に入ったんじゃない!」と反論される方もおられるだろう。じゃあ、その東大法科ご卒業の方、法学士様に「法とは何か?政治とは何か?民主主義とは何か?国家とは何か?他人の文献を引かずに・・・ご自分が日頃考えていることを答えてみてください」と訊ねてみるがよい。それに答えることもできない東大卒がいっぱいだ。日本のエリートと呼ばれる人たちですら「自分の頭で考えてみよう」という姿勢がはなっから無い人が多い。誰かが言った言葉や本や新聞に書いてあった言葉をそのまま引用する人ばかり・・・ステレオ・タイプで物事を表層的にしか見ていない。日本の文系卒というのはこの程度のものだ。(結構、ムカつく文でしょ?)

そもそも言葉というのは、言葉を書く話す以前に、伝えたい「コト」や伝えるべき「コト」が無ければ話せない。その「コト」とは日頃、自分の頭の中で考えている「コト」。日本語でもペラペラと語っていることは、実は、日頃そう考えていたからこそペラペラと話せるのだ。ゆえに、日頃考えてもいないことを「英語で書け話せ」と言われても土台無理。書けるわけがない、話せるわけがない。そして、もっと重要なことは、その「コト」をどうしても英語で伝えてやろうという強固な意思や執着心が無ければ、書くことや話すことはできない。「英語がペラペラと話せたら、かっこいいなあ」なんて思って英会話教室に通っているうちは、英語が話せるようにはならない。ちょうど「綺麗なサッカーをやろう」と心がけてやっているうちは、ゴールが奪えないサッカー日本代表と同じである。どこまでも泥臭く、ストーカーのような強い執着心・・・それが日本人全体に欠落している。周囲に嫌われるぐらい自己主張の強い人ほど語学の上達が早い。

どうしても自分が考えていることを何が何でも英語で伝えてやろう・・・実は、そういった強固な意志と執着心がなければ、日本人が英語を習得するのは非常に難しい。当然ながら、私の英語も、いっぱい間違いがあることがわかっている。それが間違いだと自分で気づけば、次回はもっと伝わりやすい英語を書こうと努力すればよいだけのこと。英語は書けば書くほど上達する。誰も最初から英語がスラスラと書けるものでもないし、ペラペラとしゃべれるものでもない。その人の英語は、その人の習得段階に応じた英語しか書けない。それと同様に日本語もまた、その人の能力に応じた日本語の文章しか書けないのと同じである。

たいへん面白いことに、他人の英語の間違いを指摘したがる日本人は多いが、他人の日本語の間違いを指摘する人はごく稀である。その背景には、他人の英語の間違いを指摘することによって何らかの優越感を得ようとする日本人が多いからだろうと思う。それが理解できれば、堂々と自分なりに考えたことを、自分なりのレベルの英語で語ればよい。英語は使えば使うほど進化する。言葉とはそんなものだ。

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